イチロー日米通算4000安打達成

私が見た「イチロー」の始まり

1992年の、それはおそらくお互い勝っても負けても関係ないような試合の、大勢には影響のない場面だったと思う。オリックスが途中から出してきた高卒1年目の選手のスイングに、ダイエー(現ソフトバンク)ベンチにいた私は目を見張った。それがイチローとの出会いだった。

■驚きの初打席、フルスイングで粘る
鈴木一朗といってもまだ誰も知らないようなときだ。ダイエーのコーチとして投手陣を預かっていた私は高卒新人の打者に対するいつものやり方で、当時の鈴木を打席に迎えた。
「高卒新人に対するいつものやり方」とはすなわち、直球しか投げないということだ。まだ右も左もわからないようなルーキーを全力で抑えにかかるのは大人げない。最初くらいは駆けだしの“お客さん”としてもてなす、というのが私の流儀だったから、いつものように捕手の吉永幸一郎にサインを送った。直球、直球、直球……。
驚くべきことに鈴木はそれにことごとくバットを当ててファウルした。しかもフルスイングで。それのどこがすごいのか、と思われるかもしれない。直球なら誰でも当てるくらいはできるでしょう、と。だがそれは違う。
プロの打席に立ったばかりの選手の多くは、まずバットをきっちり振ることができない。それくらいアマチュアとはレベルが違う。

■直球続けた後の変化球、完璧に捉える
1958年に巨人入りした長嶋茂雄さんが、開幕戦で国鉄の金田正一さんに4打席4三振を喫しながらも「末恐ろしい」と思わせたのは最初からバットをブンブン振れていたからだ。バットをきちんと振れるようになることが、新人にとっての第一関門になるのだ。
鈴木は最初からそれができていた。そしてそれだけではなかった。あまりに粘られるので「えーい、しょうがない。遊びは終わり」と、私はスライダーのサインを出した。
普通ならこれで、くるっとバットが回っておしまいとなる。直球に目が慣れたところで曲げられたら、ついてこられないものなのだ。

■「君はできる」にうれしそうな顔
ところがイチローは鋭いインパクトもそのままに、きっちり当てた。ライナー性の打球がたまたまワンバウンドで二塁手のグラブに収まり、安打にはならなかったが、完璧に捉えられていた。「この打者は大変なことになる」。鳥肌が立つ思いだった。
こういう素材を見つけると敵であれ味方であれ、とにかくいじくってみたくなるのが私の癖だ。次の日、外野で練習をしていた鈴木に声をかけた。
「鈴木君、権藤です」
「知っています。僕、中日ファンでしたから」。愛知県出身の鈴木はそういった。
「君はできる」
断片的な会話でわからないかもしれないが、私たちの間ではそれで通じた。プロで食べていけるよ、と私は言ったわけで、彼は何ともいえずうれしそうな表情を浮かべていた。

■最初の二ゴロに才能のすべてが凝縮
たった一つの二ゴロだが、その1打席に才能のすべてが凝縮されていた。直球に振り負けないこと、追い込まれてからの変化球に対応できること。この二つが最初からそろっているのだから、あとはどうにでもなるはずだった。
これは後に聞いた話だが、愛工大名電高時代は「5割を打つだけなら簡単。センター返しをしていればいいんだから」と言っていたそうだ。主軸として長打を狙わなくてはならないこともあって、センター返しばかりもしていられなかったようだが、今思えば、さもありなん、というエピソードである。
敵ながら楽しみな選手だと、次の対戦を心待ちにしていた。ところが、次にはもうベンチ入りメンバーのなかに鈴木の名はなかった。2軍落ちしていたのである。
当時はまだ振り子打法ではなかったが、打撃はしっかりしていたし、投手あがりだから肩も強い。足も速い。それでもなお2軍暮らしとなったのは当時の監督のお眼鏡にかなわなかったから。鈴木のプレーはたまにしかみられなかったけれど、そのたびに必ずキラッと輝くものがあり、なぜ使わないのだろうという疑問が膨らむのだった。

■2年目までなぜか2軍暮らし強いられ
2年目の93年も事情は変わらず、さあオリックス戦だと楽しみにしていると、そこに鈴木の姿はなかった。たまに出てくると右中間に引っ張って、ものすごい打球を放っている。1年目はまだ線が細い感じがしたが、もうパンチ力も備わっていた。これはもうレギュラー間違いなしと思ったら、やはり次にはもういない。あの2年、鈴木はどんな思いで耐えていたのか。
94年にオリックスの監督に仰木彬さんが就任した。
その年の春のキャンプのこともよく覚えている。93年限りでダイエーのユニホームを脱いだ私は評論家となって、各球団のキャンプを回っていた。なかでも楽しみにしていたのはオリックスの視察だった。鈴木はどうしているかな、と。
仰木さんとは近鉄時代にけんか別れした経緯があったが、それはそれ、これはこれである。

■仰木さんに見いだされ年間210安打
イチローをみやりながら、仰木さんと話した。
「おととしからみていますが、鈴木ってのはすごいですよ。最初の年に比べたら、去年はパワーも付きましたし、使ったら20本はホームランを打ちますよ」
「うん。フリー打撃でもあいつが一番飛ばすんだよ」と仰木さんはまんざらでもなさそうだった。そのときにはもうレギュラーで起用する腹を固めていたはずだ。
仰木さんに見いだされた鈴木はイチローとして世に出た。20本塁打という私の予測は外れた(13本塁打)が、その代わりに210安打を放った。そこから先の活躍はみなさんご存じの通りだ。
実力がありながら、1軍と2軍を行ったり来たりしているときに、私がかけた言葉をイチローは今でも覚えてくれているようだ。日米通算4000安打に達しようという大打者からすると、私などはもう吹けば飛ぶような存在になってしまったけれど、それでも会えば懐かしそうにして寄ってきてくれる。

■室内練習場にこもって打撃が日課に
やはりイチローが駆け出しのころ、父の宣之さんにも私は保証していた。「私は敵ベンチにいるので、本当は鈴木君には試合に出てもらわない方がいいのですが、間違いなくすごい選手になりますよ」と。
それにしてもプロ入り以来の最初の2年はもったいなかった。もし最初から試合に出してもらっていたら、4000安打も去年くらいに到達したかもしれない、と考えたくなるわけだが、そこはどうだろう。
キャンプでも普段の練習でも、全体練習が終わってから、室内練習場にこもり、2時間、3時間と打ち続けるのが彼の日課だ。あのつらい2年間はもちろん、一躍スターになったあともその姿勢を変えていないようだ。
室内練習のときは鍵をかけ、誰にも見られないようにし、完全に自分の世界を作る。有名になろうがなるまいが、周りにちやほやされようがされまいが、自分の流儀を守り続けることが、イチローの意地であり、自分を認めてくれなかった人たちへの無言の抵抗だったのではないかと、私はみている。

■人の目を気にせず、やるべきことを…
マスコミを含めて人の目などはあてにもしないし、気にもしない。自分は自分のやるべきことを毎日着実にやるだけ……。そんなスタンスが固まったのがあの2年だったとすると、イチローはあのころすでにイチローとしての第一歩を踏み出していたわけだ。
「鈴木君」と出会ってから22年。日米通算4000本という大記録への道のりを振り返るとき、そんな感慨がわいてくる。
(権藤 博・野球評論家)

【日経新聞】
by kura0412 | 2013-08-22 11:18 | スポーツ | Comments(0)

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